世の中になぜ不幸なことがあるのか。人間誰しも一度は考える話です。いい人で、しかも全く落ち度もないのに不幸なことが起きる、そんなことも現実にはあります。なぜ不幸があるのかということは、世界の宗教にとって、大きなテーマです。そして、人々をその悩み苦しみから救う、というのは宗教の大きな役割の一つです。  神道の前に、まず、仏教を見てみると、日本で広まった思想にこんなものがあります。現世において自分に不幸が起きるというのは、前世に悪行をしたからである、という因果応報説です。つまり、現世で悪行をすれば、来世で不幸なことが起こり、反対に善行をすれば、来世では良いことがある、ということになります。これは不幸の理由説明になるだけでなく、現世での悪行を抑えることにもなります。素晴らしい考え方であると思いますし、これが広まるのも無理はありません。  神道では輪廻、つまり生まれ変わりがある、と考えていませんが、悪行がどこかで不幸につながっる、いわゆる「バチが当たる」ことがある、というのは日本人が自然に考えることです。(といって不幸は必ず悪行を行ったから、ということにはなりませんが。)  次にキリスト教を考えると、キリスト教ではGodがこの世界を作った創造主であり、絶対主でありますから、この世のことはすべてGodの管理下にある、ということになります。ですから不幸なこともGodがなんらかの意図を持って、わざと人間に与えている、ということになります。  日本の神は絶対主Godとは違って、唯一の絶対的な存在ではありません。しかし、神がそういう意思をもって、警告やいましめを不幸という形で与えることもあるかも、と思うのも、また日本人が昔から自然に持つ発想です。  では、日本人的無神論者の方はどうでしょうか。神仏などの、現世界を超越した存在は認めませんから、不幸の状況、その起こる原理を調べるでしょう。例えば地震はこういうメカニズムで起こるのだとかを。そして、それに対して物理的な対策を立てる。しかし、その不幸がなぜ自分に起こったのか、という説明にはなりません。結局は偶然と諦めるしかありません。それで心が収まればいいのですが、実際に不幸になるとなかなか感情が収まりません。  しかしながら、不幸に対してできる限りの努力をする、というのは大切なことであると思います。    それでは、神道ではどうでしょうか。本居宣長などは禍津日神(まがつひのかみ)という悪神が不幸を引き起こすのだ、と言っていますが、その神は神話でその後の事跡もないし、すべて悪神のせい、というのはちょっと不自然に思えるので、あまり説得力のある話ではありません。  いろいろと考えてみると、結局は「不幸が起こることも自然の一部なのである。」ということになります。地震や雷のような自然災害も、事故や病気のような人間社会で起こる不幸なことも、あるのが自然である、ということです。そして、神に祈るしかない、ということです。    史書が残っている平安時代のものを見ると、桓武天皇始め歴代の天皇は、日照りや長雨などの災害があると、神社にお供えして祈り、また寺院でお経をあげさせました。神に祈るというのは、平安時代以前もそうですし、以後も変わりません。   もし、乗っている船が嵐に巻き込まれて、難破しそうになったとします。沈没しないようにできる限りのことはするとして、その後はもう、祈るしかありません。神道の信徒なら神に祈るでしょう。仏教徒となら仏に、キリスト教徒ならGodに祈るでしょう。こんな状況になると、無神論者の人も何かに祈るのではないでしょうか。それが人間の自然な姿であると思います。人間にとって日本人にとって自然なことが神道である、そう考えます。    不幸なことが起こるのは仕方ありません。できる限りのことはして、あとは神に祈る、そうすれば神はご加護を与えて下さる、というのが人間にとっての自然な道、神道なのです。